従来、・・・その活躍がことさらに軽くみられる傾向が強かった。
また、そうでない場合でも、正当な資料批判を経ないで、記紀などの記載をそのままに、彼らの歴史を構成するのが普通だった。
さらに最近では、史料批判の上に立って彼らの活躍をできるだけ跡付けることを省略し、理論などによって直ちに古代社会の形成を考えることが多くなった。・・・
また、同書の著者による「結び」(1955)には、以下の記述がある(全文)。
以上、乏しい史料にかなりの推測を加えて考えてきたことは、七世紀後半、律令制の形成の上で特に重要な時期にもかかわらず、唐との直接の交渉が杜絶(とぜつ)していた期間に、日朝関係が大陸文化摂取の上に非常に大きな意義をもっていたということであり、またその期の日羅交渉の実体の一端を示してくれる新羅学問僧なるものが、従来あまり注意をはらわれることがなかったけれども、その役割をもっと大きく評価されるべきだということである。
それは日唐直接交渉の一時的な代用物として、軽く見過ごすべきではないであろう。 当時の日本側が、遣新羅使を送ることに以外に熱心だった理由も、こういう面からよりよく説明できるのであった、この期における遣新羅使のもつ文化史的意義を改めて認識することが必要だと思われるのである。
(「山梨大学学芸学部研究報告」六、昭和三十年)
参考: ⇒ 万葉集は、その源流をどこに求め、どんな課題を提供しているか?