自衛をめぐる議論
憲法の骨格となったマッカーサー草案にはあった、「自衛のため(even for preserving its own security)としてさえ、戦争を放棄する」という部分が、ケーディスの修正を受けた司令部案では削除されていることから、自衛のための措置がとられる可能性を否定していないと解することが可能である。
また、芦田均が、第2項の冒頭に、「前項の目的を達するため」と挿入する修正をしたことにより(芦田修正)、自衛権が認められているとする見解もある。なお、芦田自身は「文意を明確にするためであり、将来の軍備保持を意図するものではない」と貴族院での議論で発言していたことが1995年の議事録公開で明かされている。
また、現憲法(第九条)は
1. 日本が被占領国で主権を失っていたときに半強制的に制定された。
2. 戦勝国である連合国側の協定(国連憲章)での「敵国条項(53条、77条、107条)」がまだ有効であったとき制定された。
3. 第二次世界大戦にいたる経緯の中で、戦勝国である連合国側の反省として、戦争拡大責任に関する歴史検証が確立される前に制定された。
4. 国内法といえども国の安全保障に関する条項は、国際法と無関係ではありえないものであって、国際法が変化すれば当然にそれに関する国内法条項の存在意義が変化し、改正の必要性は増加する。
5. 現憲法(第九条)の規定は、国連憲章の「敵国条項」の国際法による法的拘束力が及ぶ背景で草案され制定されたから「交戦権」を否定しているが、既に敵国条項が(国連総会で)無効化された以上、現在の国連憲章の1条、2条、51条、52条に明らかに違反する規定となっており、それは国民の生命の安全という、基本的人権を無視し損なう法的効果を及ぼしている。
という理由から、憲法第九条の根本的な法的有効性、存在意義そのものにおいて疑問をもつ見解もあり(以上wikipediaから)、解釈改憲・明文改憲の論拠とされている。
しかし、この見解には憲法成立の経緯と法理論の軽視がある。
1. 旧憲法では、天皇に主権があった。
2. 主権者である天皇が、ポツダム宣言を受け入れた。
3. 天皇は、ポツダム宣言受託の放送(終戦の詔勅)にあたり、「ここに国体を護持し得て」といって、天皇制の維持の希望を表明していた。
4. 国民と国際社会は、大筋としてポツダム宣言を受け入れた。
5. その結果として、現憲法には「天皇」の条項と「戦争の放棄」の条項が設けられた。
6. 現憲法成立を前提として、サンフランシスコ講和条約が締結され、平行して日本の国連加盟が申請された。
7. 現憲法では、前文で「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と誓約されている。「この理想と目的」とは、恒久平和を含む憲法の諸原則であり、「この理想と目的」を「達成」するまでは、その誓約上、日本国民は憲法を変えることはできない。憲法には改正の手続き条項(第96条)があるが、その前提は「この理想と目的の達成」であり、前提を無視した「改正」はありえない。
8. 1956年、日本は国連加盟を認められたが、このとき日本は日本国憲法を前提として「国連と世界人権宣言の目的達成のために全力をあげて協力する」との誓約書を出している。国連は、それを受け入れて日本の加盟を認めた。この「全力」の中には「戦力による協力」は含まれていない。
9. 以上により、日本が国連の一員である限り、国際社会の理解なくして日本国憲法を「改正」する論拠はない。
各種の世論調査においても、「憲法九条を厳密に守り、解釈や運用では対応しない」意見は強く、米国や一部の「解釈改憲・明文改憲」の要求は、国民的要求とはなっていないのが現状である。