北朝鮮では、国の指導者の地位を世襲的に決める。
日本では、戦争責任をそのままに、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」を世襲として一家族に与えている。
ともに、前近代的な制度で、古代エジプトなどの古代社会の考え方が生きている「伝統と文化」を現存させている、形式的にも、内容的にも(性質は異なるが)共通の遅れた体質を特徴としていることが指摘されている。
中国ではどうか?
中国でも、ノーベル平和賞受賞式に他国の不出席を要請するなど、古い社会のやり方が見られる。
ノーベル平和賞については、「核密約」など、平和賞に反する佐藤栄作の犯罪的役割を受賞で覆い隠すなど、米謀略機関の影響のもとに政治利用される歴史を汚す実績が複数あるなど、問題があることは事実であるが、それは中国の遅れた一面を清算するものではない。
しかし、それにもかかわらず、中国は日本よりも進んだ側面をももっている。
同時にそれは、日本にも言えることで、今後双方がどのように発展するか興味のあるところである。
中国の進んだ側面を1つ指摘しておきたい。
中国では、国語表記の方式を「簡体字とローマ字化(ぴん音)」を進めることにより、コンピュータの入力方式にうまく対応できる体制をとることができ、ネット社会への対応に順応できる基礎を短時間に作ることができた。
日本では、ソフト・ハードの両面で、日本語入力方式対応に多大の時間を浪費し、人類史でのソフトウェアの貢献に、わずかに残る意味のない記録に「ゲーム機とアニメ」だけが残るという結果になっている。
日本のソフトウェアの技術の遅れは、以下に象徴されている。
◇PCのOS、ブラウザなどネット関連ソフトの外国技術依存
◇アプリケーションにおいても、欧米のレベルに30年以上遅れている(1979年、チェス名人にプログラムが勝利、日本では、それが2010年のプログラムのクィーン名人に対する勝利)
この遅れを生み出したのは、何か? それは、PCの時代は始まった1970年代の苦闘に満ちた、同時に無駄であった10年にあるのではないか?
この時代、日本はPCの利用を目指すという方針をもっていなかった。 もっていたのは、以下の2点であった。
◇専用ワードプロセッサーの開発と利用
◇PCではなく、ゲーム機ビジネス追求路線
この2点の根底には何があったのか? おそらく、下記2点ではなかっただろうか?
◇長期見通しを曇らせる(短期の)「利潤第一主義」
◇福沢諭吉以来の日本文化と欧米文化の不十分な理解
以上のことは、何を意味するのか?
それは、人類の歴史は、日本の歴史をも含めて、試行錯誤を繰り返しながら、大筋では、それらの努力が歴史を前進させることを意味しているのではないだろうか?