「マルクスは生きている」(注)とすれば、「マルクス」が好き・きらいな人も生きている。 好き・きらいの前に、正確に理解するべきでは?
(注)「マルクスは生きている」 (平凡社新書 461) 不破 哲三
とくに、きらいな人の中には、「理解しないできらい」が多い。
「スターリンが共産党、マルクスも共産党、だからマルクスはきらい」
「『赤』は、弾圧されたからこわい。だからきらい」
「共産党は、一党独裁。 だからきらい」 ─ これがその理論?
マルクスは、ギリシャ・ローマ時代を含む過去の人類の思想を検討している。 少なくとも、同じ検討をして、それぞれ独自の見解をもつべきでは?
聖書・創世記には、人間は「顔に汗して、パンを食べる」とあるが、労働が基本であることを、マルクスより前の人間も知っていた。
その否定が、「搾取」であり、暴力による「他人の汗の結果の横取り」である。 「汗の量」が価値の基準で、交換あるいは売買の基準となる(アダム・スミス、デヴィッド・リカードからカール・マルクスへ)。
それが「エデンの園」以来の社会(階級社会)のあり方で、資本主義で最大の規模にたっしていると理解される。
資本主義は、永遠ではないとすれば、次はどのような社会になるのだろうか? それは、「搾取のない社会」ではないか?
旧ソ連は、「社会主義」の仮面をかぶった、専制・官僚主義であった。
搾取のない社会、「剣がすきに変えられる」(旧約聖書・イザヤ書)社会、それが資本主義の次の社会だとすれば、それはまだ将来のことだ。
現実に、そのような社会は実現するのだろうか?
それは信じる・信じないの問題ではなく、それが人間社会の発展の法則かどうか、それにそった協力した活動があるかどうかの問題ではないだろうか?
どちらなのだろうか?