「戦後も、天皇制を残してほしい」という希望を述べたものです。
旧憲法のもとでは、天皇に主権がありました。
昭和天皇は、対中侵略15年戦争、太平洋戦争の重大な責任を負っていることを知っていたからこそ、その責任を追及しないでほしい、できれば天皇制を残してほしいという希望を出したのだと思われます。
結果としては、日本国憲法の第1章に「天皇」の章が設けられ、天皇制は残されました。 なお、憲法には9条(第2章 戦争の放棄)も設けられました。 (国民もそれを容認しました)
1946年4月、昭和天皇は息子の皇太子(2010年時点の現天皇。当時12歳)の教育に関して、慶応義塾第7代学長・小泉信三(敬称略)に「東宮の学問に関する重要事項に参与すべし」の「ご沙汰」をさずけました。
小泉信三の父は、慶応義塾の第2代塾長でしたが、小泉信三は皇太子の教材のひとつに福沢諭吉の「帝室論」を選びました。
「帝室論」の中で諭吉は、以下のように教えています。
「皇太子(現天皇)の先帝(昭和天皇)は、大切な嗣子(しし・あとづぎ)をどう教育するかについて、深く考慮された(小泉信三「ジォオジ五世伝と帝室論」解説 文芸春秋 1989年3月)とのこと。 正解であったというべきなのでしょうか?
参考:
⇒ 福沢諭吉「喉笛(中国の北京)に喰い付け!」
⇒ 福沢諭吉は、2009年に何と言うか?
⇒ 美空ひばりと福沢諭吉
⇒ 「坂の上の雲」 ─ 暗い明治と暗い昭和
⇒ 「国民ダマシのシステム」とは何か?