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2010年3月27日土曜日
「日本は衰退しない」根拠は?
「日本はすばらしい実績のある国。決して衰退しない」─ 産経ニュースの過去の記事である(2009年12月4日)。
「大和朝廷(注1)が『白村江の戦い(注2)』で敗戦した旧敵の唐に学んで国家を築いた歴史から、幕末以降、近代西洋に対応してきた歴史でも、この経験が生きている」─ 日本は、歴史に学ぶことができるから「日本は衰退しない」
これは、歴史から学んでいない。
他民族・他国に攻め込む者は、失敗する ─ それが、学ぶべきことではないか?
日本の2回目の侵略は、秀吉の「朝鮮出兵」(注3)、3回目の侵略は、1910年の「韓国併合」(注4)であった。
歴史を客観的に見ないときに、「日本はすばらしい実績のある国」「決して衰退しない」といえるのではないか?
(注1)
日本史上、最初の統一政権。
ヤマト地方を中心とする豪族の連合政権。大王、のちに天皇と呼ばれる君主を中心とする支配体制を敷き、畿内を出発点に各地を平定。蝦夷たちの土地である東北・北海道を除く日本列島の主要域を支配下に置いた。
当初は氏姓制度と呼ばれる家門支配が形成されたが、のち、諸家の分裂や新勢力の台頭、大陸からの文物の影響などにより、大化の改新を経て律令制国家となる。
過去には「大和朝廷」と表記されたが、当時の実態に照らして「大和」や「朝廷」の言葉が適切ではなかったことが分かるにつれ、歴史学の分野では「ヤマト王権」あるいは「倭国政権」など、「大和+朝廷」以外の表記が用いられるようになった。ただし文部科学省の学習指導要領はいまだにこの語を用いている。
(はてなキーワード「大和朝廷」から)
(注2)
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と陸の会戦のことである。
この戦いは、唐・新羅連合軍の大勝利に終わった。大陸に超大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。中国・朝鮮側では「白江」と表記される。なお、「はくすき」は当時の地名の「白村」の百済語発音を日本側が聞き取ったものである。(Wikipedia 「白村江の戦い」から)
(注3)
朝鮮出兵: 幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれた。 その後、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20 年)から1598 年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて、日本と明との間で行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。(Wikipedia 「文禄・慶長の役」から)
(注4)
「韓国併合」: wikipediaの「韓国併合」では、「韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8 月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国[1]を併合した事を指す」としている。
この説明は、自民党の江藤隆美元総務庁長官(当時)が語った「日韓併合は両国が調印して国連が無条件で承認した」(2003年7月12日)と、同じ内容の説明である。
「国連」が国際連盟のことだとしても、同連盟が創設されたのは1920年。いまの国際連合の創設は1945年であり、いずれも韓国併合のあとのこと。
韓国併合条約は、日本政府が軍の武力による威嚇、脅迫で押しつけたもので、当時の韓国政府がみずから選択し、自由な意思のもとで調印したものではない。
日本政府は戦後一貫して、朝鮮侵略と植民地支配を正当化し続けてきた。しかし、1995年に村山富市首相(当時)が「当時の力関係の背景を考えた場合、けっして平等に結ばれたものではない」と認めている。
その後も、「植民地時代、日本はいいこともした」「国と国とが条約を結んで決めたことのどこが侵略なのか。町村合併といかほどの差があるのか」などの発言もある(同内閣の総務庁長官)。
wikipedia の説明には、「1910年8 月22日に日韓併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で締約」と、日本政府の武力での押し付けには触れない記述となっている。
(参考)
万葉集の子孫たちの恥ずべき行い
「万葉集と東アジア ─ 太陽は東から昇り、文字は西から渡来する」から
a) 秀吉軍撃退の「北関大捷碑」を旧日本軍は持ち帰り、靖国神社に置いていた
日露戦争時、万葉集の子孫、わが皇軍は朝鮮から北関大捷碑を持ち帰り、靖国神社に置いていた.
この碑は、2004年韓国に返還され、さらに2006年北朝鮮に移送されることとなった.
誇るべきわれわれの明治の先輩たちは、歴史をも変えようとしたのだろうか?
(参考)
Wikipedia 北関大捷碑から
北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)は、文禄・慶長の役の際、朝鮮北部の義勇兵が日本側の加藤清正軍などを撃退したことを記念し、咸鏡道北部(現在の北朝鮮)に建立したとされる石碑である。「咸鏡道義兵大捷碑」とも呼ばれる。
この石碑は日露戦争時、旧日本軍の将校(池田正介少将)が発見して朝鮮半島から日本へ持ち帰ったため、靖国神社の境内に長らく置かれていた。
報道から 北関大捷碑の北朝鮮へ引き渡し、6月ごろの見込み
b) 「朝鮮王朝実録」を返還
日本の植民地支配の時代に入手された「朝鮮王朝実録」が、東大からソウル大学への寄贈の形で、返還されました.
日本の植民地政策は、学術的な研究の裏づけをもって、実行されたと見るべきです.
万葉の子孫たちは、いかに知的、道徳的6に進化してきたのかがわかります.
(参考)
報道から 東大所蔵の朝鮮王朝実録、ソウル大に寄贈へ
c) 唐・新羅の間にあった歴史的文化財は、略奪され 2009年の現在も東京の皇居内にある!
日露戦争(1904~1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑(ひ)」があります.
それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です. おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.
この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています. (朝日新聞 2006年5月28日)
日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません.
まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.
[報道から] 皇居に1世紀眠る「渤海国の石碑」、中国で返還求める声
[asahi.com 2006年05月28日12時22分]