歴史問題
千島問題――ここでも歴史問題の弱点が影を落としている
ロシアとの間にある千島問題は?
志位:
ロシアのメドベージェフ大統領が国後(くなしり)島を訪問するなど、領土問題でのロシアの強硬姿勢が目立った昨年だった。
日本政府は駐ロ大使を「情報を取るのが遅かった」などと更迭したが、問題はそんなところにあるわけではない。
日本政府は、歴史的事実と国際的道理にたった領土交渉を、ただの一回もやったことがない。そこにこそ問題がある。
日本共産党は、1969年に抜本的な千島政策を発表しており、南北千島列島の返還と、北海道の一部である歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の早期返還を要求している。
この問題の根源はソ連のスターリンが第2次世界大戦の終結時に「領土不拡大」という戦後処理の大原則を破って、千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹を占有した覇権主義にある。
スターリンは、1945年2月のヤルタ秘密協定で、千島列島の「引き渡し」を要求し、8月の参戦後に、その密約に即して千島を占有し、ついでに歯舞、色丹まで占領したのだった。
日本側の問題点は端的にいってどこに?
志位:
一つは、1951年に結んだサンフランシスコ講和条約2条C項で、千島列島の放棄をしてしまう。
この放棄条項は、ヤルタ協定という戦後処理の不公正の延長線上にあるものであった。
さらに、ヤルタ協定とサンフランシスコ条約の枠内で交渉しようとして、講和条約から4年後の1955年に、突然、「国後、択捉(えとろふ)は千島にあらず」と主張し、「4島返還論」をもちだしてきた。
しかし、サンフランシスコ条約で千島列島を放棄したこと、そこに国後、択捉が含まれていたことは、当時の記録でも明瞭。
放棄条項を不動の前提にする姿勢では、まともな交渉をすすめることは到底できない。
もう一つは、日本政府が、ロシアと日本との間で平和的に画定された国境線とは何であったかということを、歴史的にきちんと吟味し、そこに立脚した交渉を一度もやってないということ。
1875年の樺太・千島交換条約で、南北千島列島は日本領、樺太(サハリン)はロシア領と確定した。
これにもとづいて引かれたのが、平和的に画定された国境線。
ここに立脚して南北千島返還の交渉を堂々とやるべき。
ところが、戦後の日ソ(日ロ)交渉で、日本政府は、ただの一度もこの歴史的事実に立脚した主張をしたことがない。
1956年の日ソ共同宣言にいたる交渉の回顧録で、松本俊一全権大使の『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』という本がある。
これを見ると、日本側は、最初は「歯舞・色丹、千島列島および南樺太は日本の領土」と主張する。
しかし、南樺太は、日露戦争(1904~05年)の講和条約(ポーツマス条約)で強奪した土地だ。
ここでも平和的に画定した千島列島と、戦争で強奪した南樺太との区別がつかないところから交渉が始まった?
志位:
そうです。 それを並べて「日本の領土」だといったら、千島列島返還の大義もなくなる。
交渉の最初はそんなところから始まった。そのうち、東京から突然訓令が来て、「国後、択捉は千島にあらず」と主張し、「4島返還論」に方針転換するのだが、これも国際的に通用するものではない。
ここにも、日露戦争という朝鮮半島の支配権と中国東北部の権益をめぐる侵略戦争にたいする反省の欠如という問題が影を落としている。