今、日常拝まされている肖像・福沢諭吉
生まれは、1835年だ
人口の数%、支配階級武士の家の次男に生まれた
下級武士であり、将来はなく、封建社会・身分制度を嫌っていた
兄の薦めもあり、長崎に行きオランダ語をならう
大阪・緒方 洪庵(おがた こうあん)の適塾を経て、江戸へ出てきた
黒船の横浜に行って街の看板が読めなかった英語だった)
あらためて英語を勉強し、咸臨丸(注1)で渡米した
注1: 咸臨丸(かんりんまる)
幕府が保有していた初期軍艦。木造で3本のマストを持つ蒸気船。
1860年、幕府は日米修好通商条約(注2)の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣する。このとき咸臨丸も渡航、これに勝海舟・福沢諭吉が乗り組んでいた。(Wikipedia)
注2:日米友好修好条約
幕末の混乱期から明治初頭にかけて日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つ。(Wikipedia)
後に、勝海舟は日清戦争に反対し、福沢諭吉はこれをあおり、それによってカネをもうけた。
(注:別途)