彼は、日本軍から逃げ出す
飢えて、手を中国人に差出したら、食べ物と着物をくれた
その後、食べ物を断られたことはなかった
中国にあんなにむごいことをした日本人に、なぜ食べ物を与えるのか?
終戦後、彼は中国に残った
何とか恩返しをしたい! 彼は医者になることを決めた
中国語は、わからない
日本でも農民の出だった
それでも勉強した
結婚した中国人女性も彼の意思を理解し、彼を支えた
医師となり開業したが、日本人の医師を信用する人はいなかった
あるとき、マラリアの病人の家に行き、薬だけを置いて帰った
病人はすぐ直り、評判がひろがった
治療費は安く(15元 300円にならない)、貧乏人からは治療費を取らなかった
故郷では、彼は死んだことになっている
テレ朝の記者の帰国にあたり、彼は書を日本人に送った
「月に、光があるよ
明るい、親切の光がある ・・・」
かれは101歳で現役の医師とのこと
(8月2日 テレビ朝日 報道ステーション)
NHKでは、現代中国をどう報道したか?
「だまし、だまされることが当たり前の中国人社会 ・・・」
(NHK 総合/デジタル総合 2010年 7月18日(日) 「アジアを駆ける日本人」)
もちろんこれは、1つの局面であり、NHKにはすぐれた中国報道もあることも事実である
しかし、福沢諭吉を思い出さざるを得ない
かれは、こう書いている(福沢諭吉全集)
「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・みなわれ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何もかまふことはない、すこしでも土地を奪えば、暖まりこそすれ・・・遠慮におよばぬ、さっさと取りて暖まるがよい」(1881年 第19巻)
「目につくものは分捕り品の外なし。なにとぞ今度は北京中の金銀財宝をかきさらえて、彼の官民の別なく、余さずもらさず、かさばらぬものなればチャンチャンの着替えまでもひっぱがして持ち帰ることこそ願わしけれ。その中には、有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・一儲け・・・。
(1894年 第14巻)」
諭吉は、自分を「暗に政府のお師匠さま」といっている。(1897年8月22日「時事新報」)
まさに、かれは日本による台湾・朝鮮半島の植民地化、中国・東アジア侵略戦争を思想的に準備し、鼓舞・推進した先生であった。
2010年の現在も、最高額紙幣の肖像となって、「戦後60年以上、戦争の清算をしない日本」の先生となっている。
しかし、その中でもテレ朝が伝える101歳の日本人医師のような方もいる!
どちらが、歴史的に評価されるべきなのだろうか?